フランス在住、加藤亨延記者による大聖恩寺の記事が、エキサイトコネタに掲載されました。大聖恩寺の建立からこれまでに至る取り組みを、熱心に取材して、素晴らしい記事を執筆いただきました加藤記者に心から感謝します。 http://www.excite.co.jp/News/bit/E1446706281730.html
日蓮宗の寺院建立めぐりドイツで宗教紛争 反発から築いた地元との対話とは
Excite Bit コネタ 2015年11月8日 10時30分
ライター情報:加藤亨延
異質なものに対する反発。人間であれば大なり小なり持っている感情だ。それが「宗教」ということになれば、対話の扉は、なおさら有無を言わさず眼前で閉じられることが多い。ドイル西部ノルトラインベストファーレン州、森に抱かれた小都市ヴィッパーフュートに建つ日蓮宗の大聖恩寺は、その反発を乗り越えてきた寺だ。
このような保守的な同地において、2000年にやってきた日蓮宗は完全な異教であった。今では住民と寺との相互理解は進んだものの、寺の建立が計画された当初、賛否の議論は町全体を包み、完成後は放火事件も起きた。紆余曲折を経て今年15周年を迎えた大聖恩寺は、ここヴィッパーフュートにおいて、どのように地元との壁を取り去り、対話を図ってきたのだろうか。
田舎に異教徒が来るということ
大聖恩寺は日本人現地責任者・シュテフェンス祥馨法尼を中心に切り盛りされる寺だ。ドイツ人と結婚したシュテフェンス法尼は、夫を亡くした後、仏門の師匠にあたる竹内日祥上人と相談し、夫の別荘があり深い友人関係や人脈のあったヴィッパーフュートに、自身が帰依している日蓮宗の寺を竹内上人と共に建てて、諸宗教対話(宗教間の対話)を進めようと決めた。
最初、大聖恩寺をハンブルクやケルンといった、ドイツの大都市に建てる案もあったという。ハンブルク市長に相談した際に、ハンブルクに立ててほしいという依頼を受けたこともあった。しかし、規模は小さいが中世よりハンザ同盟に属し、歴史深く敬虔なカトリックの町ヴィッパーフュートに、より深い縁を感じて、ここに建立を決めた。
雪解け、そして新しい苦難
2000年6月、大聖恩寺の開山法要に際し、地元カトリック司教が参列した。寺は町に受け入れられたかに思えた。しかし新たな苦難が大聖恩寺を襲う。開山から2年後、2002年に寺が放火の被害にあったのだ。1階本堂と2階にある会議室3室が全焼、本堂の仏具、什器など一切の設備が焼けた。
3カ月に及ぶ警察と消防の調査にも関わらず、犯人は特定できなかった。考えられる可能性のうち9割が放火であろうとされた。当時、ユダヤ教のシナゴーグや他宗教の集会場が同様の妨害行為にあっていた時でもあった。犯行動機は、この時期に同寺が中心となり催していた国際交流フェスティバルに対する妨害行為であろうと推測され、異宗教か偏向的な考え方の人物、組織による犯行であろうと結論が出された。
どのような人が日蓮宗に興味を持つのか
大聖恩寺の門を叩くドイツ人の多くは、主に元SGI(創価学会インターナショナル)の信者だという。SGIに入ったものの自分に合わなかった時に、次に大聖恩寺で学ぼうとやってくるそうだ。ここで葛藤が生じる。
創価学会とは日蓮宗の一派、日蓮正宗から分かれた新宗教である。日蓮正宗とは、日蓮が決めた弟子6名の1人、日興が建立した寺院を本山とし、名を日蓮正宗と改めた宗派だ。そのため日蓮宗とは少し異なる考え方で発展してきた。よって「SGIにいた期間が長いほど、日蓮宗の考え方とのズレが大きくなり、すでに棄教していたとしても根幹でその溝が埋まらないことが多い」とシュテフェンス法尼は悩む。
加えて日独の文化の違いにも直面する。日本の場合、自分の個性は傍に置き、教えられた仏教の考え方を、まず自分の中に受け入れる人が多い。ドイツの場合は、最初に自分なりの個性、考え方があり、それをベースに仏教を理解しようとする。すると個人的な解釈が加わり、本来の教えとギャップが出てくるという。
広がる地元との交流
日蓮宗を伝える面で苦労は多いものの、地域との交流は確実に広がっている。数校の地元ギムナジウム(ドイツの中等教育機関)との取り組みも、その1つだ。
ドイツでは小学校から「宗教」の授業がある(カトリックの家の子はカトリックの授業を、プロテスタントの家の子はプロテスタントの授業を受ける)。その授業の一環として、他宗教への理解を深めるために大聖恩寺で仏教を知る授業を組み込みたいと、ギムナジウム側から申し出があったのだ。
宗教の授業以外にも、ヴィッパーフュートではカトリック、プロテスタント、イスラム教、仏教の関係者が集まり、様々なテーマで話し合う住民参加型の交流会を開くようになった。
(加藤亨延)